2018年7月1日執筆
当時妻が倒れた日のこと、最愛の妻への思いを語りたい。*1
- 現状について
- 2017年12月1日朝のこと
- 私は仕事を理由に家庭・妻を犠牲にしてきた
- 長男にいにの退院について
- 職場で3日休暇を貰ってはいた
- その日の妻のスケジュールはキツキツだった
- 妻との最後のショートメール
- 妻が倒れたとき
- 搬送先の病院へ急いで向かう
- 喘息の発作なのか?
- 病院に着いて
- 淡い期待を抱いて
- 打ち砕かれた期待
- 受け入れ難い現実
- ママと永遠の別れ
- 2017年12月1日午後6時50分
- ママと歩んだ半生
- ママに対しての感謝と後悔の念
- 心の整理ってどうやってつけるんだ?
- 今までのようなブラックな働き方は出来ないということ
現状について
私は、今、朝夕次男けんけんを子ども園に送迎しながら、仕事に行っている。勤め先には出勤時間や、退勤時間にかなり配慮をもらっており、残業時間はほぼゼロだ。
私の仕事は、本来夜勤があり残業時間も部署によっては相当あるいわゆるブラックな職場だ。だが、私が毎日子供達の面倒を見るため、夜勤や残業をしなくなり、もう半年以上が経つ。
2017年12月1日朝のこと
私の運命を分けたその日は昨年12月1日、早朝出勤のため自宅を午前5時半ころ出た。普段自宅を出る際、いつも妻におにぎりを作ってもらいそれを持って出勤し職場の自席で朝ご飯として食べていた。
しかし、その日は仕事の都合でだいぶ早い時間だったので、なるべく妻や子ども達(その日は長男のにいには入院中で退院の日だったので長女ねえね次男けんけん)を起こさないように、5時前に起きてそうっと寝室を出て身支度していたが、嬉しいことに早朝にもかかわらずママが起きて来てくれて普段通りおにぎりを握ってくれた。
そして「パパ行ってらっしゃい」と妻から声をかけられ「行ってきます」と返事をして、妻の手をにぎにぎして家を出た。
恥ずかしい話をするが、私達夫婦は、心を通わせるためスキンシップを欠かさないようにしていた。
毎日ではないがキスをしたり手をハイタッチしたり、にぎにぎしたり。この日はそれが妻とした最後の会話、最後のスキンシップになるなんて思いもしなかったが。
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私は仕事を理由に家庭・妻を犠牲にしてきた
私は、今までの結婚生活の中で、かなりの部分において家庭を犠牲にして仕事を優先してきた。
約1か月休みなく仕事に集中したり、1週間家に帰れずに業務にかかりきりになるなどして、その間家庭のことは一切気にすることなく、妻に専業主婦として家庭を支えてもらってきた。
以前テレビドラマで
「仕事一筋の職人気質な夫、家庭のことは妻に任せっきり。そんな夫が定年退職と同時に妻から三行半(離婚届)を突き付けられる」
というエピソードを観て
妻に「かわいそうじゃないか。夫は家族のために働いてきたのに、仕事人間だったからって晴れて退職したのに残酷だよ」と言ったら
妻からは「家庭を顧みなかったんだから仕方ないんじゃない」と言われショックを受けた覚えがある。
それ以来、家庭のことをおろそかにしないよう気を付けてきたつもりだったが、仕事が忙しくなるたびに家庭のことは妻に頼りっきりになっていた。
そんなときは、仕事がいかに激務なのかを盛んに話して妻に理解を求めるとともに自分の中でも
「しょうがないんだ仕事がキツくて余裕なくて家庭のことを何も出来なくても」
と言い訳をして家庭のことから逃げていた。
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長男にいにの退院について
妻におにぎりを持たせてもらい職場に急いでいたその日(昨年12月1日)は、長男が右手を骨折して入院中のところ退院する日だった。
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私は、長男の退院前の入院中3日間休暇を取り、長男の食事の世話など看病にあたった。
そして長男の退院日が、私の目論見では私が休みの土曜日を考えていたが1日早まり金曜日となった。病院食が嫌な長男は一刻も早く退院したがった。
ただ、その日はパパ久しぶりの仕事の予定だった。土日休んで月曜仕事して火曜から火水木3日連続で休暇をもらったところだったし、また、金曜日だけ仕事したら長男のために土日月と休ませてもらう予定だった。
昼頃退院(病院のお昼ご飯はでないかも)とのことだったので、長男の退院の世話は妻にお願いしようと思った。
職場で3日休暇を貰ってはいた
休暇をもらう前にも上司に「いつまでですか?休みいつまであげればいいんですか?退院はいつですか?」と聞かれた。(「いつまで休暇を取らせればいいか」という配慮ではあったが)
骨折なので概ねは分かるとはいえ手術を受けて1日半しか経っていないその段階で、金曜なのか土曜なのか日曜なのか、まだまだ決まる回復状況ではなかった。それなのにそんなこと聞かれても答えられなかった。
仕方なく3日休みをもらい看病にあたり金曜日が退院になった場合は、妻と妻両親にやってもらうことにした。
私の目論見では私の休みである土曜日だろうと思ったし、土曜日にして欲しかった‥‥
今は「こんなことになってしまった」ことを考えると「土曜日退院でお願いします」と病棟に依頼しておけば良かった。とまた悔恨してしまう。
しかしながら結局のところやはり私はまた仕事を優先し妻に頼り切ったのだ。
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その日の妻のスケジュールはキツキツだった
妻からは「パパお仕事大変だし、近くにいるジジババ(妻両親)にも手伝ってもらうから大丈夫だよ」と言われた。
だが後で知ったが、その日妻は、午前中肌寒い中、小学校の持久走大会(当初前日の11/30予定を荒天のため12/1に延期)に出る長女の応援に次男とともに駆けつけていた。
妻はねえねの持久走大会を見届けた後で長男にいにの入院先の病院へ次男けんけんとともに向かい、長男の退院手続きを行った。
ママが、持久走応援後の午前11時過ぎに行ったためか長男にいにの退院は結局昼をまたぐ形になった。
長男にいには病院食のお昼が出て食べれたそうだが、妻らはかなり長時間待たされたそうだ。
妻と一緒に病院へ行った義母に後刻そう聞いた。次男けんけんとともに行っているが幼児のけんけんは小児病棟内には感染病防止等のため立ち入ることは出来なかったからだ。
(いつも小児病棟はそうだった。大人が入る一般病棟はそんな制限なかった)だから必ず付き添いの大人が必要だったため義母にも行ってもらっていた。
妻との最後のショートメール
そしてようやく退院が出来た午後2時07分、妻からショートメールで「長男を退院させて家に着いた」旨連絡があった。(病院から自宅へは車で10分程度の距離だ)
私はメールを確認し10分後に「ママありがとう」と返事をした。
ショートメールであり私が返事をした側なのでさらに何か折り返しママからメッセがあるとは思わなかったが、結局パパのその返事に対する答えは永遠に帰ってくることは無かった。
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妻が倒れたとき
妻はその後夕方小学校で補習授業を受けていた長女を迎えに行き、午後4時前(記録では15:58)に、小学校の校庭で喘息の発作を起こして倒れた。
倒れたところを目撃した児童がすぐ先生を呼び、AED等迅速な救命措置が取られるとともに119番通報がなされたことは後になって聞いた。
私の携帯電話に小学校の先生から電話がかかってきたのが午後4時13分だった。
最初先生から、妻が校庭で倒れた旨を知らされ、次いで救急隊員に代わり妻の既往症について質問があり「最近喘息がきついって言ってましたけど」と答えるとともに、私は内心で「無理をさせてしまったな。貧血かな」などと楽観的に考え、妻の容態を尋ねた。
私はこのとき、既往症を遠方にいる夫に問い合わせている時点で、妻は重篤な状態なのだということを察することが出来なかった。
電話先の救急隊員は、私の問いに多少躊躇したような間を置いてから「心肺停止です」と言った。
私はこの「心肺停止」という言葉を一瞬現実のものと受け止めることが出来なかった。
「心肺停止」などという言葉は、ニュースなどで聞く単語で、まさか自分の身にこの単語が降りかかってきたなんて受け入れることが出来なかった。
なにかの間違いか、壮大なドッキリじゃないかと思いたかったが、その反面、その単語の重みを理解し私の内心は絶望感に支配され膝から崩れ落ちた。
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搬送先の病院へ急いで向かう
救急隊員からは引き続き
「〇〇病院(奇しくも長男が今日まで入院していた病院であり、妻が昼前後長男の退院手続きのため訪れていた病院だ)へ搬送します。旦那さんすぐ病院へ来て下さい!」
と言われたが当時の職場は東京都心であり、千葉県柏市の自宅や搬送先の病院へは約1時間半かかる。
私は妻のところまで果てしなく遠く感じ「今東京にいるんです。一時間半かかります!」と泣き叫ぶように言ったが「とにかくすぐ搬送するので急いで来て下さい」とのことで通話が終わった。
私の様子がおかしいことにすぐ上司が気づき何があったのか聞いてきた。
私は「妻が倒れて救急車で搬送されたみたいです」と振り絞るようにしてか細く話すだけで精一杯だった。
現実のこととは到底思えず(今でもそうだ)、悪夢を見ているか、ドラマの俳優として悲劇を演じているかのようだった。
上司からは「すぐ帰って駆けつけなさい」と言われたが、明らかにうろたえている様子の私を見て、落ち着くように諭されたが、私が「妻は心肺停止みたいです」と消え入りそうな声でやっと伝えると上司も顔色を変えた。
駆けつけるために自席の机の上をノロノロと片付けようとする私に対して「片付けなんてしなくていいから早く行きなさい」と言ってくれた。
(だが同時に「片付けを手伝いますよ」とか「書類しまっておきますね」と言った同僚は居なかったが)
こうして、取るものも取りあえず、職場から急いで病院へ向かうこととなったが、通勤電車は帰宅ラッシュが始まる前。
電車に飛び乗った私は内心を少しでも落ち着けようと、空いた座席に座った。
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喘息の発作なのか?
車中で「喘息 死亡」「喘息 突然死」などとスマートフォン(愛用2年半になるiPhone6S)で検索すると、厚生労働省のデータでは毎年年間1,000人~1,500人が喘息を死因として亡くなっていることが分かる。
「喘息」という病気を軽く考えていたつもりは無かったが私に取ってその死者数は衝撃以外の何ものでも無かった。
妻が喘息持ちだということは当然知っていたし、自分も子どもの頃小児喘息だった。
だがそんな危険な病気だとは思っておらず、この数日前に妻が咳をして苦しそうにしているのを見てもあまり重大には考えることが出来ず、妻を気遣うこと寄り添うことが出来ていなかったのだと痛感した。
また、向かっている最中に、先に病院へ着いた義父から、妻は「危険な状態」であると悲痛な連絡をもらった。
だが、まさかそんな簡単に死ぬわけはない。自分が駆けつけたらきっと息を吹き返してくれる。そう根拠のない淡い願いを抱きながら病院へ向かった。
病院に着いて
私が病院へ向かっている途中に最悪の知らせが来たりはしないかと生きた心地がしなかったが、先の義父の連絡以外連絡は無く妻が倒れた頃から約2時間、病院へ到着した。
病院の救命救急センターには子供達を含め大体の親族が揃っており、他の親族も皆向かっているところだという。
この病院の救命救急センターには、子どもの骨折などで何度かお世話になったことがあり、大けがをしたらお世話になる場所であり、死が眼前に迫っている場所だとは思えなかった。
淡い期待を抱いて
私が到着してすぐに案内されるかと思ったが、処置中とのことで、なかなか案内されず待合室でしばらく待っていた。
この時思ったのが、もしかしたら持ち直したか?すぐ案内されないのは持ち直した容態をさらに好転させるための処置で忙しいのかと淡い期待を抱いた。
蘇生が出来ないような状態ならすぐ呼ばれるのではないか。きっとそうだ。呼ばれて会いに行ったら案外目を覚ましているんじゃないか。本気でそう思っていた……
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打ち砕かれた期待
丁度親族もほぼ揃った頃、私が到着してから30分くらい経った頃か、看護師から呼ばれ皆で中へ入り妻のところへ行ったところその淡い期待は打ち砕かれることになる。
案内されて、妻のベッドの元へ向かうと、そこには、普段刑事ドラマか医療ドラマで見るような、管が何本も取り付けられ、虚ろな目をしたまま心臓マッサージを受け続けながら微動だにしない妻がいた。
医師から
「搬送されてから一度も心拍の再開が無いまま2時間以上経ちます。脳へのダメージを考えるともう」
と私に対して死刑宣告をするかのごとく絶望的な説明をしてきた。私は、目の前の出来事が現実のものとは到底受け入れられなかった……
ようは医師は夫である私に対して暗にもう無理だ。諦めろ。と言ってきたのだ。
受け入れ難い現実
私の脳裏では、知識として現在の妻の状態が絶望的であることは理解できた。だが「わかりました。諦めます」などと簡単に言えようか!
受け入れ難い現実に私は
「子供達も一緒なのに‥‥嫌だ!こんな形で妻と永遠の別れだなんて」
と思い、必死に妻の手を握りしめ妻に「戻って来て欲しい」と呼び掛けた。
その間も「電気ショックは?」と聞いたが「電気ショックは効果が無い」と言われ、「何とかならないのか!」と泣き叫ぶように助けを求めたが返事は誰からも無かった。
「どうしようもないんだよ、あきらめろ。早くこの無駄な心臓マッサージを終わらせろ」
と言われているようなそんな重たい悲痛な空気が部屋を支配していた。
現実問題、自分の嫌な部分だが脳裏では冷静に「倒れて搬送され、2時間以上ずっと息を吹き返していない人間が蘇生するはずがない。後は自分がどのタイミングで措置を中止してもらうか」と感じていた。
だが、自分の最愛の妻の死を認めること。しかも親族が勢ぞろいして泣き叫ぶようにして「戻って来て欲しい」と呼び掛けている。
子供達3人もそばにいて泣きながら「ママ戻って来て」と妻にすがりついている。今更子供達の目をつぶらせる訳にもいかない。
そんな状況でそんなこと(蘇生措置の中止を求めること=ママの死を認めること)は出来なかった‥‥
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ママと永遠の別れ
しばらくの間、目の前の否定したい現実に目を背けていた。小学校に向かった妻を自宅から見送った次男はまだまだ手がかかる2歳だ。
親族の中で次男だけが事の事態が掴めずにきょとんとしている。この可愛い次男が母親を失うだなんて。
骨折から今日妻と一緒にこの病院を退院したばかりの長男。小学校に迎えに来るはずだった妻を待ち続けていた長女。二人とも泣きながら妻に戻ってくるよう声をかけている。長男は思春期で反抗期真っただ中。長女は反抗期前の可愛い9歳。
耐え難い現実、何より、妻の両親である義父母や子ども達に本当に申し訳ない気持ちだった。私が「今日休みを取っておけば」と思わずにはいられなかった。
妻は長い時間心臓マッサージを受けていた。だが、心拍が再開することは無かった。いつまでもこうしているわけにもいかず、誰かが決断しなければならない。そして、それは夫である私の役目だった。
私はこの先どれだけの間生き続けるかは分からない。むしろ最愛の伴侶を失った絶望感から生き続けたいとも思わない。しかし子ども達のためには生きていかなければならない。
この先この瞬間のことを一生涯忘れることはないだろう。
覚悟を決め、義父母に「おとうさんおかあさんもう‥‥」と言った。このぐらいしか言えず果たして伝わっただろうかと懸念したが、続けて心臓マッサージを続けているスタッフに「もう‥‥いいです」と告げた。その私の一言で、まず心臓マッサージが止められ、医師が所定の確認をする。
「午後6時50分」と医師から告げられ、私の最愛の妻であり子ども達が大好きなママの死亡が宣告された‥‥‥‥
私は、事件や事故に遭ったのと変わらない衝撃を受けたように思った。
あっという間にこんな残酷な形で最愛の妻と永遠の別れだなんて‥‥子ども達にとっても厳しすぎる現実だ。
次男はまだ2歳だ。目の前の出来事が理解出来ていないだろう。こんな過酷な現実が我々家族に降りかかってくるなんて到底受け入れられなかった。
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2017年12月1日午後6時50分
2017年12月1日午後6時50分
私はこの瞬間を一生涯忘れることはないだろう。私の最愛の妻であり子供達の大好きなママを永遠に失った瞬間だ。
ママと歩んだ半生
結婚して12年余り、ずっと大好きだった妻。失うには大きすぎるかけがえのない存在であり、私にとっても子供達にとっても余りにも早すぎる別れ。例えようもなく辛く苦しい悲しみの日々の始まりとなった。
私は当時、就職後約20年、妻とは交際期間も含め約13年一緒に歩んできた。就職後の大半を妻とともに過ごしてきたことになる。
これまでの半生を振り返ると、仕事のため常に妻に家事育児で過重な負担を強いていたと思う。
何かあるたび反省し改善するが、時が経つとまた仕事に前のめりになり家庭を置き去りにしてしまっていた。
近年ワークライフバランスが喧伝されていたが、私は仕事と家庭のバランスが上手く取れず仕事も家庭も上手くいっていなかったのかもしれない。仕事の役職・責任に汲々としてなかなかバランスが掴めなかった。
もちろん、家庭を大事にしてきたつもりだし、日頃子ども達の世話や家族サービスはしてきた。
だが妻にとっては、反抗期を迎え気難しくなってきた長男と、気立てはいいがまだまだ幼い長女、そして、魔の2歳児(通称イヤイヤ期)で何にでも拒否反応を示す次男に囲まれて大変な日々を過ごしていたと感じる。
今まさに私が置かれている環境であるからだ。
私の仕事人間としての半生は妻の犠牲の上に成り立っていたと言っても過言ではないだろう。妻の助けがあって私は自分が持っている以上の実力を発揮して、仕事を全うすることが出来たのだと思う。
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ママに対しての感謝と後悔の念
妻に対しては感謝の念と、いつも辛い思いをさせてしまったことに対する悔恨しかない。
今更何をしても償えるものではない。
これからどうしたらいいのか正直なところ分からない。妻の居ない初めての夏を迎えたが、今まさに地獄にいるかのような塗炭の苦しみを味わっている。
心の整理ってどうやってつけるんだ?
妻を亡くした直後は呆然とするも必死になって葬儀告別式を執り行った後、年末ということもありせわしなさに追われあっという間に年を越すとともにやっとのことで次男を保育園に入れる算段をつけ、年明けから職場へ戻った。
だが、特にストレスの溜まる仕事をしているうちに自分の心の整理が全くついていなかったことに気が付かされた。
今までのようなブラックな働き方は出来ないということ
また、現状に慣れてきたところで、子ども達が通っている小学校や保育園・子ども園から頻繁に呼び出される毎日であることを思い知らされた。
酷いときは同時に3人とも発熱で呼び戻されたりして月の半分近くを看病で休まざるを得ない日々が続いた。
私は今までこれを全て妻にやらせていたのだ。
こんな状態では今まで通りには働けない。そう感じた。今後どう働いていくか働き方を考えなくてはならない。
現在の私の地位・立場は妻の犠牲の上で成り立っている。何よりも今は妻が残した子ども達が最優先だ。
妻を犠牲にして現在に至っている私が妻に報いるにはそうする他ない。
私はこれから、残された子ども達を育てていくためにどの生きていかなければならないか。答えはまだ見つかっていない。
一つだけ言えるのが、繰り返しになるが今までのように仕事ファーストではいけない。家庭ファーストでなくてはならないということだ。
そして、これから茨の道であるが、妻の墓前に、家庭と仕事を両立させた姿を見せられるようにしたい。
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*1:少し長いです